ゲームねじ式に関する一考察(1997/09/14)

あなたはかつて、あのつげ義春原作「ネジ式」が映画化どころか
パソコン用ゲーム化されていたのをご存じだろうか。

現在と違って、まだ誰もがパソコンを持っているとは
云いがたい時代だった1989年、
このカルト的 な作品はツァイト(Zeit)という会社から発売された。
しかもPC-98 のみならず、SHARPのX68000という
カルトなプラットホームにおいても発 売したのであった。

(ちなみにX68000は当時としては画期的にもCPUにモトローラ68Kを採用していた。)

Zeit、という社名を見て、あることに気づいた方もいるかもしれない。

そう、今は亡き青林堂創設者、長井勝一社長の跡を継いだ二代目代表
山中潤氏がかつて率いていた 会社である(現在もあるのかもしれないが)。

山中氏は当時、このゲームの中に、つげ氏の作品キャラクターに命を吹き込んだ。
大容量主流の現代に比べ、あまりにもささやかな1MBあまりの世界に、
壮大な世界を描き込んだのである。

今、僕の目の前に、その画像が流れている。
確かに、膨大なデータを駆使する昨今のゲームと比較すると、見劣りしてしまう。
しかし、これが1MBあまりでできているのかと考えると
すさまじい熱意を感じないではいられない。
つげ作品の世界を忠実に再現し、サウンドと共に妖しい幻想世界を作り出している。

ところで、当時、このゲーム作品に触れた時には気付かなかったのであるが、
今改めて眺めてみるとあることに気付かされる。

強引な意見と失笑を買うかもしれないが、寺山修司作品との共通性である。

サウンドにしてもJ.A. シーザーによる影響が随所に見られる。
寺山修司とつげ義春、昭和40年代初頭の若者に絶大な支持を受けた2人の作家。
この2人には共通点が多いことに今更ながら改めて驚く。

このゲームの冒頭、時計や時間を扱ったシーンがいくつか登場する。

ストーリー構成にはつげ氏本人も携わった、ということであるから、
これは彼の内在した(当然、山中氏 のイメージも加味されているには違いないが)
イメージなのであろう。
実際、かつてのつげ作品にも「初茸がり」 などに時計が登場している。
そして周知のように、寺山修司作品群(田園に死す、さらば箱舟等)にも
時計のシーンは数多く出現する。

時間というものをモチーフとして捉える作品は、
シュールレアリスムを扱う群の中にはしばしば登場する。
かの夢野久作の大作「ドグラマグラ」にしてもプロローグとエピローグの
キーワードとして時計が出演するのだ。
時間は、狂気を扱う作品にいつでも大切なキーワードと成り得るのである。

つげ作品群と寺山作品群の共通性は、このゲーム(という名のメディア)における
「時間」の扱いに関わらず、 随所に見られる。

もっとも、当時の世相から考えれば、
この様な手法で自己表現していた若者は彼らだけではなかったし、
彼ら2人だけの共通性ではなかったのかもしれない。
当時の文化(というよりサブ・カルチャー)を形成していた人間たちは、
やはり口にしなくとも互いに惹かれあい、 影響を与えあっていたのであろう。

僕はそんな世界に強い憧れに似たものを感じる。

2人の扱う世界は
一方が美を追求するあまり世界を拒絶するスタンスをとっているのに対して、
もう一方は美醜の総てを受け入れるというスタンスをとっている。
しかし、スタンスの違いはあるにしても根底の部分での
「優しさ」を僕は感じずにはいられない。
僕がこの2人の間に感じる共通性は、
おそらくこのあたりから発生するものなのであろう。

ビジュアルな表現を手段としながらも、
言葉というメディアの面白さ、やさしさを追求していた2人に僕は 今更ながら感動する。

そしてつげ義春の世界に内在するこのイメージを崩すことなく、
しかも計算された アレンジを施した制作スタッフには改めて拍手を送りたい。

このゲームの設定の中にこんな台詞が登場する。


「言葉を信じるか」

「表現された100の言葉と表現されなかった100億の言葉」

日進月歩の勢いで登場する最新のメディアの中に
あなたはこんな言葉を見つけることができるであろうか。

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