今年もまた いつもと同じように年があけた
とはいっても、今年はなんだか新世紀突入とやらで
世間はいつもよりほんの少しだけ
楽しいようなふりをしている

先日 たまたま家族が 帰省で留守にしたため
家にひとり残った僕は久しぶりに
のんびりと 正月気分の街に出てみることにした

手をつないだカップル、子供を連れた夫婦連れ
晴れ着姿の若い女性
そして 少し酔ったような赤い笑顔のオトナたち

街はそんな人々で溢れていたけれど
やっぱり ほんの少し
賑やかなふりをしているだけの いつもの街のようにも思えた

繁華街の入り口にある小さな公園が目に入り
歩き疲れた僕はそっとベンチに腰掛け
しばらく行き交う人々を眺めていた

そんなときだった
ポケットの中から 触りすぎて
しわくちゃになってしまった一本の煙草を取り出し
そっと火をつけたとき
どこからか懐かしいメロディが流れてくるのが聞こえた


そしてその瞬間 あるひとつの記憶が
いわゆる走馬燈のように 頭の中に蘇るのを感じた

ちょうどあの日も こんな感じだった

1984年の1月だったと思う
僕は当時 大学受験を控えた高校生活を送っていた
特に志望する分野があったわけでもなく
ただなんとなく みんなが受験するから自分もそうする
そんな気持ちで 毎日を送っていた頃のことだ

僕はその日 東京の郊外にある小さな病院を訪ねていた
そして
最後の瞬間をいままさに迎えようとしていた彼女が
そこにいた

鎮静剤の点滴を受けていたため
最後の彼女はおそらく僕が入ってきたのを
理解することはできなかったと思う

2歳年上の彼女とは そのちょうど1年前 僕が当時利用していた私鉄沿線の
小さな駅からちょっと歩いたところにある
時代から取り残されたような古ぼけた喫茶店で知り合った
数人の友人達とその小さな店で
僕たちはいつも くだらない夢を語り合うのが好きだった
そして そこでそんな僕たちに熱いコーヒーを運んでくれるのが彼女 M子だった

ある冷たい雨の日だった
友人に待ちぼうけを食らった高校2年生の僕は
行き先もないまま M子のいる店に向かった
こんな日は あの店であったかいコーヒーを飲んで
道行く傘の波を眺めるのもいいな
親に買ってもらった安物のジーンズのすそを濡らして
ビニールの小銭入れの中身を確かめながら
僕は店にむかって 冷たい雨の中を傘もささずに走っていた

客は僕の他にはひとりもいなかった
しん、と静まり返った店の中では
古いストーブがキンキンと音を軋ませながら
真っ赤になって僕を睨んでいた
マスターがカウンターの奥でカップを磨いているのが見えた
M子はBGM用のLPレコードを片づけていたらしく
埃のつもった古い木製の棚の前に立っていた

「今日はひとり? 珍しいね」
彼女は軽く微笑んで僕に話しかけた
「うん 友達と映画でも行こうかって話してたんだけどさ すっぽかされちゃった」
「ふーん 女の子でしょ やましいこと考えてたのがばれたんじゃないの?」
「え! 違うよ」

雨に濡れた硝子の窓越しから 人の行き交う夕方の雑踏を
僕はしばらく飽きもせずに眺めていた
「ねえ この歌手しってる?」
振り返るとM子が一枚のLPレコードを手にしてテーブルのそばに立っていた
渡されたレコードを見つめると そこには見知らぬ外国人女性が映っていた
「知らないよ 誰?」
M子は眼をまるくしながら肩をすくめて僕にいった
「JANISよ ジャニス・ジョプリン.. 知らないの? 私 大好きなんだ」
彼女はカウンターの方に向かって振り返り
ジャケットからそのレコードを取り出して
そっとターン・テーブルに乗せ 針を動かした

スピーカーからブルージーなピアノの優しい旋律がこぼれてくるのがわかった
激しい曲を好んで聞いていた当時の僕には
そんな優しい音が 何故だかすこぶる新鮮に感じた

それが JANIS の "KOZMIC BLUES" だった


「私ね いつかお金貯めて アメリカ行くんだ」
数日後 何気なく誘った映画を観た帰り
立ち寄った繁華街の喫茶店で彼女は僕に云った
「彼女が生まれて そして亡くなった国 アメリカ」
なんの映画をみたのかは覚えていない
あのときの彼女の雰囲気が忘れられなくなっていた僕は
おそらく気持ちの赴くまま
何処かで彼女との時間を共有したかったんだろうと思う
M子は意外にも 軽く微笑んで僕の誘いを受けてくれていた

ふと顔をみつめると こちらを睨んでいた彼女と視線が合い
僕は照れくさくなって顔をふせた
「ねえ JANIS のどんなところが好きなの?」
僕は緊張して 考えもなく彼女に尋ねた
 「JANISはね ひとりでね たったひとりで死んじゃったんだよ」
ストローで小さくなった氷の欠片を転がしながら彼女は呟いた
「私にはそんな死にかた できないなって思うの きっとそんなところが好きなのかも」
ふうん、と僕は云った なんて答えたらいいのか
そのときの僕には判らなかったからだ
2歳年上のちょっと大人の女性の雰囲気が僕には少し眩しかったのかもしれない
「じゃあさ いつか僕がおとなになって稼げるようになったら一緒に行こうよ」
口をついて出たのは そんな言葉だった
彼女は驚いたような顔をして僕の顔を見たような気がする
「ハハッ それってもしかして口説き文句?」
口説き、という言葉に僕はドキッとして
「え 違うよ きみの話を聞いてたら 僕も行ってみたいなあって思っただけだよ」
戸惑う僕に彼女は云った
「高校生のガキのくせに 生意気な奴だなあ」
いつもの街の風景がガラス越し見えるのを 彼女は静かに眺めていた
「うん じゃあ 一緒に行こうね いつかきみがオトナになったらね」
彼女は口元に優しい笑みを浮かべて僕に確かにそう云った

もうすぐ3年生になる
今にも雪が降りそうな2月の日曜の午後だった


5月になった
季節はもうじき夏を迎えようとしていた
なんとなく その2月のことが恥ずかしくて
僕はM子の働く店から遠ざかっていた
もともと連絡先など知らなかったから
彼女とはそれっきり会わなくなっていた そんな頃だった

ある日 友人に誘われ
僕は久しぶりにその店にいくことになった
少し気まずいような思いをしながら 僕は店に入った

彼女はいなかった
無口なマスターはひとりで今日もカップを磨いていた
僕は ほっとした反面 少し淋しいような気持ちになっていた

翌週 僕はひとりで店を外から眺めに行った
M子はその日もいなかった
もともと流行ってる店ではなかったし
きっと彼女は辞めてしまったんだ
僕は自分に言い聞かせるように そう呟いた

M子の記憶はそうして次第に薄れていった

季節はまたいつしか冬になっていた
受験が近づき 自然と友人と遊びに行く機会も少なくなっていた
ある日 学校がおわって帰宅する途中
誰かが 僕を呼んだような気がして振り向いた
「やあ 久しぶりじゃないか 最近来ないから心配してたんだよ」
M子の店のマスターだった
「ごぶさたしています 受験生なもので遠ざかってました」
「そうか まあ そんなところだと思っていたよ」
マスターは笑いながら僕に云った
「そうそう きみにね 伝えたいことがあったんだよ
駅まで来れば会えるかと思ってね ひまなときはたまに見ていたんだ
よかったよ やっと見つけられた」
伝えたいこと? 僕は怪訝そうな顔をしてマスターの話を聞いた
「M子なんだけどね 今年の春から病状が悪化してね 入院してるんだよ」
意外な言葉に驚く僕をみながら彼は続けた
「よく働いてくれるこだからね 俺もずいぶん助かってたんだ
おまえさんとでかけたときのこと あの後 ずいぶん楽しそうに話していたよ
あんなに嬉しそうなM子の顔みるのは珍しかったよ
だからおまえさんに早く話さなくちゃって思ってたんだ
一度春に来てくれたときに話そうかとも思ったんだけれど
あのときはまだこんなに長くかかるとは思ってなかったからね
それで おまえさんの連絡先も知らないしな 困っていたってわけだ」
そうだったのか 僕は懐かしい気持ちがこみ上げると同時に
彼女に会いに行かなくては そう確信している自分に気付いていた
「ここが彼女の入院先だよ 
彼女寂しがってるよ 行ってあげなよ 喜ぶぜ」
僕は マスターに軽く会釈すると 即座に彼女の元へ向かっていた

「来てくれたんだ! びっくり!」
長い髪を後ろで一本に結った彼女が僕をみて云った
「びっくりしたのは僕の方だよ 全然知らなかったからね」
ベッドの脇には真っ赤なポインセチアがひっそりと置いてあった
そうか クリスマスが近いんだな 僕はそう思った
「こんな鉢植え 病人にはいけないんじゃなかったっけ?」
僕は不満そうな顔をしながら 脇に置いてあるイスに腰掛けた
「ずいぶん 古くさいこというのね いいのよ 私 好きなんだ」
細い指先が その真っ赤な葉を撫でていたのを覚えている
僕は彼女をみて云った
「さっきさ マスターに駅前で偶然会ってね 驚いたよ」
M子は白い歯を見せて楽しそうに笑った
「マスター わざわざきみのこと探してくれたのかなあ 恥ずかしいな」
「長いらしいね だめだよ アメリカ行く約束果たせなくなっちゃうよ?」
僕はまだこのとき 彼女がどんな病気で入院しているのか まだ全く知らなかった
僕の言葉に一瞬淋しげな表情をしたM子は
もう一度 その葉を撫でながら 呟くように僕に云った
「そうだね 約束守らないとね」
そのとき僕は なぜだかその表情が 永遠の別れを暗示しているかのように思え
それ以上 話を続けることができなかった

「また来るね」
そう言い残して 僕は病室を後にすることにした
彼女は うん と微笑みながら頷いた
優しい笑顔だった
そしてそれが 僕がみた 彼女の最後の笑顔だった



1984年1月3日だった
世間は正月を迎え 僕は彼女がまだ
入院しているのか退院しているのかもわからないまま
ひとり病院へ向かっていた

彼女の居るはずだった病室へ着くと 名札に彼女の名前が消えているのがわかった
もしかして 退院したのかな 正月だからな
僕が振り返って引き返そうとしたとき
「M子さんのところに来たの?」
ひとりの中年女性が僕に そう話しかけてきた 同室の人のようだった
「はい でも退院したんですね また連絡とってみます」
僕が笑って会釈すると 彼女は云った
「ナースステーションのわきにある部屋に移ったよ 早く行ってあげて!」

数人の看護婦が慌ただしく彼女のいる部屋から出てきた
僕は表現のしようのない不安を抑えながら その病室に入った
エプロンをした女性がひとり 彼女の枕元に立っているのが見えた
点滴のガラス瓶が より冷たい輝きを放っているように思えた

彼女は最後のときを迎えていた
僕はその光景がなんだかひとごとのように思え
ただ立ちつくすことしかできなかった

「あなたは?」その女性が僕をみて云った
僕はそのとき なんと説明していいのかわからなかった
「もしかして Kさん?」
意外にも彼女は僕の姓を知っていた
うなずく僕をみて 彼女は眠ったままのM子に語りかけた
「Mちゃん 彼が来てくれたよ よかったね」
そのときだった
今にして思うとあれは夢だったのだろうか
M子が一瞬眼を開いたかのように見えた
彼女は僕をみて何か云おうとしていた
「約束果たせなかった ごめんね」
僕には確かに 彼女がそう云ったように見えた

そしてそれから数分後 彼女の命は 静かに終わった

「M子はね 小さいときから難病を抱えていたんですよ
私は叔母なんですが この子はひとりでよく頑張ってきました
両親とも早くに亡くしてしまってね
叔母さんに迷惑かけるからって
高校を卒業したらすぐ そう あなたと会ったお店で働くようになって
ひとりで生活を始めていたんですよ
すごくいい友達ができたって
この子 いつも云ってたんですよ」

一直線に唇を閉じ、瞳をつむったまま動かない
真っ白になってしまったM子がいた
僕は彼女の脇に腰掛けて いつまでもその安らかな顔を見つめていた

病室をあとにした僕は
ひとり正月の街を歩いていた
何処をどう歩いたのか覚えていない
ただ 知らないうちに涙が溢れてくるのがわかった

彼女は僕との約束を果たさないで
僕をおいて ひとりで JANISに会いに行ってしまった





僕は去年 6歳になる子供を連れて M子の憧れた アメリカへ行った
旅立つ早朝 空港の外で
ひとり煙草をくわえていたとき

何処かでKOZMIC BLUESが流れているのが聞こえた



2001年1月3日
正月を迎えた街は いつものように
ほんのちょっとだけ賑やかなふりをした人々で溢れていた

JANISを僕に教えてくれたのは彼女だった

僕は今年で36歳になる



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