さくら、そら、とり
高校を卒業した春休み、私は近所の病院の小児科病棟で食事介助のアルバイトをしていた。
小児科病棟の隣には特別室があり、そのおじさんはそこに入院していた。
ある日の昼食時、私はいつものように病棟を訪れた。
すると、私の担当するはずだった子供に、面会者がいて、食事の用意をしていた。
私は突如、仕事を失い、何をしたらいいのか途方にくれていた。
その時、ちょうどナースが通りかかり、私の様子を知ってこう言った。
「悪いんだけど、大谷さんの散歩に付き合ってくれない?
見た目はちょっと怖いけど、変な人じゃないから大丈夫よ」
私は、特別室のおじさんが、「大谷さん」であることを、その時初めて知った。
そして私と大谷さんは、桜が咲く公園まで一緒に散歩をすることになった。
部屋に行くと、大谷さんは杖を持ち、背筋をピンと伸ばして立っていた。
背は私よりも低く、痩せていて、頭の毛が一本もなかった。
そして、黒の丸いサングラスをしていた。
年齢は、父親ぐらいだろうと感じた。
私が名乗ると、「大谷です」と低いはっきりとした声で名乗ってくださった。
そしてすぐに、エレベーターへと歩き始めた。
私は慌てて後を追いかけ、エレベーターのボタンを押した。
外に出ても、大谷さんは特に話しかけることもせず、
早くも遅くもないスピードでただ歩き続けた。
私は、半歩後ろに下がりながら、彼のペースに合わせて歩いた。
公園へは一本道だった。
公園は桜が満開だった。
天気が良かったこともあり、芝生は花見客のレジャーシートで埋め尽くされていた。
満開の桜と見物人の多さに、私は思わず「うわぁ」と歓声を上げた。
すると、突然大谷さんは、私の手首をがっしりと握り絞めてきた。
私は一瞬ドキッとしたが、態度にも言葉にも出さなかった。
そして、大谷さんと共に、芝生に敷かれたレジャーシートを踏まないように、
桜の木のほうへ近づいた。
桜の木下に、空いているベンチを見つけて、私達はそこに座った。
満開になった桜の木々はは、春の風に揺さぶられて、時々花びらを舞わせていた。
心地よく、なまぬるい春の日だった。
「春だな」
大谷さんはそう言って空を見上げた。
帰り道のことはあまり覚えていない。
大谷さんが、どこまで私の手首を握り締めていたのかも、よく覚えていない。
覚えているのは、大谷さんを部屋に送り、ナースステーションで挨拶をした時に、
大谷さんは目が見えないということを、はじめて知ったということだ。